ほんまにそれでええんでっか?

世の中のアレコレにほんまにそれでええのか関西弁で切り込むさかい。

藤井聡太くんの人気で将棋人口は増えるのか

〇なんか藤井聡太くんの人気がすごい

近年ディープラーニングの飛躍的発達で数々のプロ達がAIにフルボッコされ、三浦九段のカンニング疑惑騒動もあって完全に日陰に追いやられていた将棋連盟を照らす唯一の光、それが彼である。スポンサーである各新聞社としても売上が下がり続けている現状を挽回(悪あがき)できそうな数少ない逸材であり大々的に取り扱っているのが見て取れる。史上最年少でプロ棋士になり史上最年少で7段に昇格。若干15歳でありながらベテラン棋士達が揃って唸るほど落ち着いた手を指す。私は将棋ウォーズで2段程の実力しかないので正直なところ雲の上の存在すぎて彼の棋譜を見てもその凄さがイマイチよくわからない。しかし講談社から出版されている「人間の未来 AIの未来」でプロ棋士羽生善治が彼の凄さについて語っている部分を読むと「あーなるほど」と感じさせられる。内容を要約すると大抵の棋士はプロになっても様々な戦型に慣れ親しむ時間が結構必要だけど彼の場合はセンスがずば抜けているので対応できていること。それからめちゃくちゃ若いのに攻守のバランス感覚が凄まじく細かいミスをしないということなどがある。傍から見るとイヤイヤあんたも十分そんな感じやで!と突っ込みたくなるが、あの羽生先生のお墨付きなのだから相当凄いと感じざるを得ない。

 

〇じゃあ藤井聡太ブームによって将棋人口は増えるのか?

結論から言うとNOだ。藤井くんは確かにすごいが、それとこれとは別問題な気がする。将棋人口が増えるかどうかは将棋自体が持つ魅力と将棋が社会にもたらす影響に依ると思う。というわけで将棋自体の魅力と社会への影響について少し考えてみる。まず将棋の魅力について書くと、精神力や決断力を鍛えられるということが魅力としては大きいんじゃないかなと思う。将棋は1vs1のガチバトルで誰の助け舟もなく自分の頭だけで競う競技だ。運の要素もほぼ無いことから負ければ必然的に自分自身の弱さを噛み締めなくてはならない。まさに自分との戦いなわけで精神力や決断力を鍛えるに適した競技だと思う。

しかし同時に魅力に欠ける部分も多い。まず将棋に関する知識は将棋以外には使えない。例えばスポーツなら肉体やバランス感覚が鍛えられるし他のスポーツにも応用できる。基礎体力の増加という面で考えればありとあらゆる生活面で良い影響がある。それに異性からの人気も得やすい。他のマイナス点としては、将棋は棋力を上げるまたは維持するためには詰将棋を解くなどの努力をほぼ毎日継続する必要がある。棋力が高い人ほど数日指さないだけで手が見えなくなる。子供のうちは時間があるし棋力も伸びやすいからそれでも熱中できるが、社会人として仕事をする頃になると毎日指すのが億劫になる。しかも個人差はあれど25歳くらいで棋力のピークがやって来るからそれ以降は棋力維持のために更に時間が必要になる。重要なのは棋力の向上に時間が必要になるんじゃなくて棋力の維持に時間が必要になる点。やればやるほど自分はこれ以上強くなれるわけでもないのに一体何をしてるんだろうという気持ちになってくる。

そんなわけで将棋人口の大半は時間にゆとりのある10代の若者と70代以降の老人に集中している。社会に良い影響かどうかはわからないが、将棋は孫を持つ老人達が相手をしてもらうための良いきっかけにはなると思う。実際、私も祖父から将棋を教えてもらった。まあ2カ月くらいで私の方が強くなりすぎて相手にならなくなり、しばらく忖度将棋を繰り返すうちに将棋自体をやめてしまったのだが。ある日いつものように『将棋するか?』と笑顔で聞いてくるおじいちゃんに向かって『おじいちゃん弱いから嫌や、おもんないもん。』と一蹴したことはいまだに深く後悔している。おじいちゃんごめん...。話が脱線したがこんな思い出を語る人間も少子化と単身世帯が増えるに連れて減っていくのかもしれない。

他に将棋が社会にもたらす良い影響について考えてみると、それは今すぐ何かあるという話ではなく将来的に徐々に出てくる可能性はあるかなと思う。仮に、今後さらなる技術の発達によってそれほど働かなくても衣食住が安定して供給されるような時代が来るとしよう。そういう時代においては労働の価値はかなり低くなり、生産性や耐久性よりも人としてのユニークさに価値の指標が移る可能性は高いと思う。そうなれば俗にいう尖った人間の方が社会にとって価値があるとされるだろうし、将棋マニアにも他の生き方が出てくるのかもしれない(適当)